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野辺地町の概要

                             
             常夜灯                西光寺のしだれ桜              名馬花鳥号
 

1.歴史

 「のへじ」の名の由来は、アイヌ語の「ノンベチ」から、「野中を流れる清い川」の意味といわれています。
 野辺地町の歴史は、縄文時代まで遡ることができ、町内には、寺ノ沢遺跡(縄文後期)、槻ノ木遺跡(縄文中期)、枇杷野遺跡(縄文後期)、陣場川原遺跡(縄文後期)など遺跡が分布しており、食糧資源に恵まれた豊かな自然環境のもとで、縄文人の生活が営まれていたと推測されます。
 野辺地の名がはじめて文献に見えるのは、建武2年(1335年)ですが、有戸(蟻渡)の名は、これより144年前の建久2年(1191年)に見ることができます。以後、江戸時代が終わるまで南部氏の領土でした。
 立地的に古くから交通の要衝として栄えていました。特に延宝年間(1673~1680年)から明治初年にかけ、豪商と呼ばれた地元の野村治三郎や野坂勘左衛門、さらには北陸の銭屋五兵衛などの千石船が往来し、野辺地湊からは大豆や銅が積み出され、上方からは塩、古着や木綿、酒、紙など様々な商品がもたらされ、野辺地は盛岡藩の日本海航路の玄関として東北有数の商港として栄えました。
 明治22年(1889年)4月1日の町村制施行によって野辺地村、馬門村、有戸村が合併して「野辺地村」となり、同30年8月28日に町制を施行し、「野辺地町」となっています。
 昭和元年に旧制中学校が開校、戦後弘前大学教育学部野辺地分校が誘致され「小さな学都」として名をはせました。
 昭和22年に野辺地港が商港の指定を受けたことにより、日本燃料株式会社野辺地工場をはじめとする企業が進出し、若年層の雇用促進に大きく役立ちました。
 現在では、弱電・繊維関係数社の企業進出にとどまってますが、下北半島縦貫道路の建設などから、野辺地町は、下北・上北地域の広域交流の中核都市として、その機能発揮と繁栄への期待があります。
 尚、野辺地の歴史については、野辺地の歴史.pdf(野辺地町歴史民俗資料館作成)もご参照ください。
 

2.位置・地勢・地質

① 位 置
 青森県北部の下北半島と夏泊半島に挟まれた、陸奥湾に沿った湾入域に位置しており、東南部は東北町、東北部は、横浜町及び六ヶ所村、西側は平内町と接しています。県庁所在地の青森市までは車で1時間ほどの距離にあります。町の区域は、南北に12.5Km、東西に15.8Km、総面積は、81.68K㎡を有しています。

② 地 勢
 北を陸奥湾に面し、南に八甲田連邦の山麓を背負い、東には緑豊かな丘陵が続いています。 
 全体的に西高東低で、陸奥湾からなだらかな平地が広がり、ほとんどが農地となっています。 
 河川は、奥羽山脈を源とする野辺地川が町の中心部を縦断し北に向かって流れ、枇杷野川、与田川、二本木川などの支流と合流して陸奥湾へ注いでいます。これらの川は、流域の農地のかんがい用水の役目を果たしています。

③ 地 質
  全体的には非固結性火成岩の堆積による表層腐埴土から形成されており、土壌は水田地帯において壌土と腐植土、畑作地帯では地力の低い上北平原火山灰土壌となっています。
 

3.気象

 年間を通じて西の季節風が強いほか。太平洋側から吹きつける梅雨時の偏東風(ヤマセ)が作物の生育に少なからず影響を及ぼしています。
 しかし、冷涼な気候により、夏は過ごしやすく降水量が比較的少ない反面、冬の降雪量が極めて多く、県内有数の豪雪地帯となっています。降雪量は年々減少傾向にありますが、12月から3月まではほとんど雪の中の生活となり、交通機関をおびやかすこともあります。
 

4.人口と世帯数

 人 口  14,034人  (H27年8月31日現在)
 世帯数   6,573世帯 (H27年8月31日現在)